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利根運河について
利根運河とは
利根運河は、利根川と江戸川を結ぶ全長8.5㎞の運河です。
明治半ばから昭和初期まで、関東の物流を支える重要な役割を担っていました。内陸部に作られた運河は珍しく、自然の地形を生かして作られた建設当時の姿を今に伝えています。
江戸と北海道・東北を結ぶ船の道
北海道や東北地方から大消費地江戸にコメなどの物資を運ぶための航路は、仙台から江戸に向かう途中、浅瀬や砂浜が多く、中継地となる良好な寄港地がありませんでした。
17世紀には、房総沖をぐるっと回って江戸湾へと至る航路が使われていましたが、黒潮の流れに逆らって南に下り、江戸湾に入ることが難しく、日数もかかりました。そこで、荷物を銚子港に運び、大きな帆をつけた川舟に積み替えて利根川で運ぶようになりました。
地図「北海道・東北から江戸(東京)に物資を運ぶ航路」(利根運河交流館所蔵資料参照)
江戸時代から明治初期の航路
利根川は、江戸川や鬼怒川との合流点のあたりに中州ができて、川底が浅く、川舟が通りにくくなっていました。特に、利根川と江戸川との合流点である関宿には、洪水の時に江戸川に流れ込む水量を抑えるために、あえて川幅狭くする「棒出し」が築かれていたため、通行の難所となっていました。このため、利根川の途中で、積み荷をいったん舟から降ろし、馬を使って陸路で運び、再び江戸川から舟に乗せて運ぶようになりました。しかし、この方法は、荷物の積み替えなどに手間がかかり、時間もかかるうえ、費用も割高でした。
「高瀬舟」(流山市立博物館所蔵)
利根運河建設に向けての動き
〜着工から完成まで〜
利根川と江戸川を結ぶ運河の建設に向けて、国に強く働きかけたのは、茨城県会議員の広瀬誠一郎と茨城県令(現在の知事)人見寧でした。二人は明治14(1881)年に国や県に新たな運河の建設の必要性を訴えましたが、なかなか実現しませんでした。そこで、出資者を募り、明治20年に「利根運河株式会社」を設立し、民間事業による運河建設を目指しました。
利根運河を設計し工事監督を務めたのは、オランダ人土木技師A•T•L•ローウェンホルスト•ムルデル(以下ムルデル)です。ムルデルは、現地を調査し、谷津や沼など自然の地形を生かした運河を設計しました。
建設工事は明治21年から23年まで1年10か月、のべ220万人の人が工事に従事したと言われています。工事は、クワやツルハシで堀って、出た土をモッコで担いで運び、ほぼ人力だけで掘り進められました。明治23年3月25日から営業を始め、5月にはすべての工事を終え、6月18日に竣工式が行われました。
「運河開削工事」(流山市立博物館所蔵)
利根運河の完成と産業の発展
利根運河の開通によって、航路は約40㎞短くなり、3日かかっていた日数がわずか1日で済むようになりました。
最盛期には、年間約4万隻の船が通りました。利根運河を利用することで、銚子、野田、流山では醸造業が一層発展し、運河沿いには多くの商店や船宿などが立ち並び賑わいました。運河に沿って約6千本の桜の木が植えられ、果樹園や利根運河大師巡りなど観光名所としても知られるようになりました。
「運河を航行する銚子丸」
(流山市立博物館提供、個人所蔵)
運河としての役割を終える
明治29年に、土浦線(現在の常磐線)が開通して以来、物流の担い手は、次第に船から鉄道や自動車へと移っていきます。利根運河を利用する船も徐々に減少していきました。
さらに、度重なる利根川の洪水の影響を受けるなど、自然災害にも悩まされました。昭和16年の台風による大洪水で、水堰橋が崩壊し、船が通行できなくなりました。利根運河株式会社には、すでに、運河を修復するだけの体力はなく、昭和16年に国に買収され、会社は解散し、利根運河は、運河としての役目を終えました。
「倒壊した水堰橋」
(流山市立博物館提供、個人所蔵)
その後の利根運河
その後、利根運河は、「派川利根川」と名前を変え、利根川の洪水を防ぐ治水の役割を担うことになりました。昭和50年から平成12年までは、首都圏への洪水を防ぐ役割を果たす「野田緊急暫定導水路」として利用されました。
平成2年に、利根運河通水100年を迎えたことを契機に、「派川利根川」から元の「利根運河」に名称が戻りました。利根運河は、日本の近代に建築された代表的な建造物として、平成18年には土木学会の土木遺産に、翌平成19年には経済産業省の近代化産業遺産に、令和元年には「歴史の道百選」(文化庁選定)に選ばれています。
「運河橋」(流山市立博物館所蔵)
*運河として既に使われなくなり、利根川河口が堰き止められたあとでも湧き水などで水が豊かでした。
(参考文献)
・国土交通省関東地方整備局江戸川河川事務所『利根運河~利根川と江戸川をむすんだ川の道~』
・利根運河協議会『利根運河フットパスマップ』